その切符は、駅の片隅にある無人窓口で売られていた。
「片道切符、戻り先なし。乗る覚悟がある者だけ」
貼り紙には、そう書かれていた。

谷口は迷わず買った。仕事に追われ、家族にも見放され、もう何も未練はなかった。人生を降りるには、ぴったりの列車に思えた。
列車は深夜、静かに駅に滑り込んできた。古びた車両には誰もいない。谷口は一人で乗り込んだ。扉が閉まると同時に、どこかからささやくような声が聞こえた。
「ようこそ。あなたの望んだ世界へ。」
車窓の外は、美しい景色が続いていた。かつての幸せな記憶のように。若き日の妻の笑顔、子どもの小さな手、日差しのまぶしい公園。
やがて列車が停車した。降りた谷口の前に現れたのは――彼自身だった。だが、笑っていたのは“もう一人の谷口”。
「ずっと見てたんだ、君のこと。羨ましかったよ。泣いて、笑って、失敗して。それでも現実を生きてる君が。
僕はずっと、影の中から君の人生を眺めることしかできなかった。」
“もう一人の谷口”はゆっくり手を伸ばした。
「でも、ようやく交代の時が来た。ありがとう。君がここに来たから、僕は現実の世界で君の代わりになれる。」
そう言って、“もう一人の谷口”は列車に乗り、現実世界へ戻っていった。
谷口は静かにその背中を見送る。そして呟いた。
「もう当事者にはなりたくないんだ。泣くのも、笑うのも、疲れた。
…傍観者でいるほうが、ずっと楽だよ。」
そう言って微笑んだその顔には、なにも映っていなかった。
列車は二度と戻ってこなかった。
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おはようございます。
落武者戦闘服です。
最近旅行に行きまして、電車をイメージしてショートショートでした。